林さん

大学の友人に、林さんという人がいる。
一学年上に編入してきた人で、一緒に実習などを受けたのだが、すごく面白い人で、一緒にいて飽きない。

彼は東大出身で、もともと宇宙工学か何かを勉強していたのだが、色々あったらしく(なかなか聞き出せない)、編入試験を受けてみたところ合格したので入学したそうだ。ジャニーズとかモー娘。のオーディションでよく聞く話だ。

彼は勉強をサボるくせがある。では勉強をサボって何をしているのかというと、勉強している。今日も、試験のある科目の教科書を閉じ、統計力学の勉強をしていた。わけがわからない。
「林さん、勉強はやめて、勉強してください」というのは、僕の周りで流行っているジョークだ。特にうまい返しを思い付かないのか、林さんは笑っている。

学問を志して大学に入ったにもかかわらず、現実は学問とは程遠く、試験対策ばかりしていたり、人の点数を聞いて一喜一憂しているような周りの人間が嫌だった。そして自分も、ある時偶然良い点数を取った時、喜んでいる自分に気付き、自己嫌悪に苛まれた。そういうことを林さんに相談すると、的確な答えが返って来る。
「僕たちがいる学部ってのは奥が深くて、おそらく先生たちもわからないことだらけだろう。たしかに試験勉強をすれば、試験範囲でわからない事はなくなる。点数も取れるだろう。でもそこで勉強をやめずに、試験勉強の先の、自分が実はまだ何もわかってないって気付ける所まで勉強したら、何か見えるかもしれないよ。」
学問は自分の外側を厚くする事だとばかり思っていたが、内側に掘り下げる事もできるのだ、というより、むしろそれが本質だと教えられた気がした。

センター試験

センター試験について書こう書こうと思ってるうちに、センター試験から1週間以上経ってしまった。


僕は2年浪人して今の大学に入学したので、センター試験は3回受けた。

1回目、つまり現役受験生だった頃は、まだ物事の分別があまりついておらず、人生について深く考えた事もなかったので、「みんなで受ける試験」くらいにしか考えていなかった。というか僕の高校はみんなそんな感じで、寿司の出前を取ったり、雪合戦を始めたりと、周りに顰蹙を買うような事ばかりしていた。そのくせ県内で一番賢い男子校だったもんだから、その場で答え合わせをおっぱじめて他の受験生を恐怖のどん底に陥れたり、まぁむちゃくちゃだった。同じ会場で受ける事になった別の高校では、「あの高校の生徒には近づかないように」というお達しが出たりしていたらしい。

とにかくそんな感じだったから全然緊張せず、模試では毎回650/900くらいだったのに、へらへらしながら当時の自己ベストを叩き出した覚えがある(といっても740/900くらいだったが)。ちなみに、そろそろセンター試験が廃止になるという話もあるし、10年後に受験生がこの記事を読むことを想定して740点という点数がどれくらいの数字かを説明しておくと、学部にもよるが、名古屋大学ならボーダーくらい、京大を受けると言ったら先生に止められる、東大や国立の医学部に行きたいと言ったら、「舐めてんの?」と言われるような点数である。

で、僕は京大を受けると言い張って、先生に止められ、しかし京大を受けて、案の定落ち、浪人した。このへんの詳しい事はまた記事にしたいと思う。


2回目のセンター試験でも自己ベストを出した。もっと言うと、3回目も自己ベストを出した。たしか2回目が780/900くらいで、3回目が799/900だった気がする。800点に届かないあたり、持ってないな〜という感じだ。


(3回目のセンター試験で出願を忘れそうになったり、本番で時計を忘れたりした話を書こうと思ったのだが、長くなったのでまた今度書く事にします。)

友人の死

ブログを開設してみた。ツイッターもやってるから、言いたい事が長い時はブログ、短い時はツイッターというふうに使い分けようと思う。


さて、初めの記事がこんなタイトルで申し訳ない(誰に?)が、ついこの間、大学の友人が死んだ。

1コマ目の授業の前、学部長の先生が講義室に入ってきて、その旨伝えた時、最初に感じたのは恐怖だった。私にとっては初めての友人の死であり、まだ自分には関係のない事だと思っていた死が急に日常の一コマのように感じられたのだ。私は歯を磨く。私はくしゃみをする。私はお腹が減る。私は死ぬ。次の瞬間には起こりうる事なのだ。

次に考えたのは、「彼が」死んだ、という事だった。友人とは書いたが、私と彼はさほど仲が良かったわけではない。一度家の鍵を拾ってもらっただけだ。訃報を聞いた時は流石に衝撃があったが、それは死が持つインパクトによるものであり、私の中に友人を失った悲しみやもう二度と会えない淋しさはほとんど湧いてこなかったし、少し時間が経った今では減衰している。

親しくはなくとも身近な人間の死が、これほど悲しくないものだとは思わなかった。これは自分だけなのだろうか。あるいは、もっと親しい友人が死んだら、私はもっと悲しかったのだろうか。自信がなくなってきた。

クラスの連中を見ていると、彼の死はとっくに忘れさられているように見える。もちろん、死とはそのように扱う物だ。いつまでも喪に服すのは間違っている。しかし、彼の事はそのように扱うべきではない。彼=死ではないのだ。

死をあまり悲しめなかった償いの意味もこめて、私は鍵を見るたびに、かつて彼が鍵を拾ってくれた事だけは思い出そうと思う。一生。だから許してね。