友人の死

ブログを開設してみた。ツイッターもやってるから、言いたい事が長い時はブログ、短い時はツイッターというふうに使い分けようと思う。


さて、初めの記事がこんなタイトルで申し訳ない(誰に?)が、ついこの間、大学の友人が死んだ。

1コマ目の授業の前、学部長の先生が講義室に入ってきて、その旨伝えた時、最初に感じたのは恐怖だった。私にとっては初めての友人の死であり、まだ自分には関係のない事だと思っていた死が急に日常の一コマのように感じられたのだ。私は歯を磨く。私はくしゃみをする。私はお腹が減る。私は死ぬ。次の瞬間には起こりうる事なのだ。

次に考えたのは、「彼が」死んだ、という事だった。友人とは書いたが、私と彼はさほど仲が良かったわけではない。一度家の鍵を拾ってもらっただけだ。訃報を聞いた時は流石に衝撃があったが、それは死が持つインパクトによるものであり、私の中に友人を失った悲しみやもう二度と会えない淋しさはほとんど湧いてこなかったし、少し時間が経った今では減衰している。

親しくはなくとも身近な人間の死が、これほど悲しくないものだとは思わなかった。これは自分だけなのだろうか。あるいは、もっと親しい友人が死んだら、私はもっと悲しかったのだろうか。自信がなくなってきた。

クラスの連中を見ていると、彼の死はとっくに忘れさられているように見える。もちろん、死とはそのように扱う物だ。いつまでも喪に服すのは間違っている。しかし、彼の事はそのように扱うべきではない。彼=死ではないのだ。

死をあまり悲しめなかった償いの意味もこめて、私は鍵を見るたびに、かつて彼が鍵を拾ってくれた事だけは思い出そうと思う。一生。だから許してね。